2019.06.12
コラムvol.2 生涯、すっぴんで過ごした和子の深い愛情と意地とプライドと。
女性にとって化粧とはどんな意味をもっているのでしょう。自分を綺麗に見せるための手段?個性を表現するためのテクニック?それともコンプレックスを隠して自分の身や心を守るための防衛策でしょうか。
辞書を紐解いてみると『化粧』とは「紅やおしろいなどを使って、顔などを美しく見えるようにすること」、また別の辞典には「美しく飾り立てること」とあります。誰しも自分のことを少しでも魅力的に見せたいと願うのが女心というもので、女性にとって化粧とは、いわば魔法のような意味をもっているのかもしれません。
ところが林虎彦の妻・和子は、この魔法を放棄することにします。それも20代前半の女盛りともいえるときに、生涯〝すっぴん〟でいることに決めたのです。
化粧をしたのは生涯でたった数回!?
和子の人生において化粧をしたのは数回だったといいます。1回目は16歳のとき。自分の結婚式を挙げた日のことです。祖母が用意してくれたあでやかな加賀友禅の着物にひけをとらぬよう、美しい化粧を施してもらいます。
また、夜逃げ同然で引っ越した鬼怒川温泉において。虎彦の饅頭製造機づくりのために貧乏暮らしを余儀なくされていた和子は、化粧品を買う余裕などありません。成人式でさえも菓子屋の白い作業服を着て、すっぴんのまま出席します。そんな和子を不憫に思った「あさや旅館」の女将・八木澤伊勢子さんは、和子が友人の結婚式に招かれたときに自分の衣裳を貸して、さらにお化粧をしてくれました。これが生涯で2度目です。
ここまでは、すっぴんでいることを心に決める前のこと。その後、お祝いの席などに招かれたときに化粧をしたことが1,2度あるくらいです。包あん機が完成して生活に余裕ができた後も、基本的にはすっぴんを貫きます。日常生活はもちろん、昭和40年に虎彦が全国発明表彰の発明賞を受賞したときも、49歳で紫綬褒章を受章したときも。立派な黒留袖で身を包みながらも、顔は素顔のまま。化粧をすることなく式典に出席しています。
和子がそこまで「すっぴん」にこだわった理由は何なのでしょう。
虎彦は化粧顔の女性が好み?
大好きな虎彦がすっぴんを好んだからでしょうか? はっきり申し上げてこれには疑念が残るところ。というのも、彼は鬼怒川時代に芸者さんにうつつを抜かしたことがあります。芸者さんといえばすっぴんとは正反対に、濃いメイクをしています。芸者さんとのことが原因で喧嘩をすることもしょっちゅうで、書籍『すっぴん』(142p)には「ちょっとくらいお化粧をして小綺麗にしたほうが、虎彦さんは遊びに行かなくなるかしら」と悩むシーンも。
虎彦はまた、自分の開発した機械にマリリン・モンローを由来とする名前をつけています(=パイやデニッシュ類をつくる製パン機械「MMライン」がそれに当たります)。世界に羽ばたくようにと名付けたといいますが、虎彦の好みであろうことは否めません。マリリン・モンローもやはり濃いメイクが印象的。こうした行動を鑑みると虎彦はすっぴんより、むしろ化粧をしている女性を好んだのではないか、と思わずにはいられません。
真意のほどは分かりませんが、負けん気が強い和子としては化粧顔の女性に対抗心をもって意固地になり、妻としてのプライドとして、すっぴんを貫き通したのでしょうか……。
和子は「おしゃれさん」
では、和子自身はお化粧などのおしゃれに無頓着だったのでしょうか。答えは、下記の写真の通り。貧乏時代こそ着るものに気を遣う余裕はなかったものの、宇都宮に引っ越して、包あん機の生産が安定すると、和子はおしゃれを楽しむようになります。イギリス人モデルのツイギーの真似をしてミニスカートをはいてみたり、鮮やかなピンク色のワンピースやフリルのついたブラウスを着てみたり。どんなにおしゃれを楽しんでも、顔だけはすっぴんのまま、なのです。
生涯、すっぴんの理由……
彼女は80歳を超える今もすっぴん生活を続けています。これまで余計なことをしてこなかったためなのか、ツヤツヤと若々しく、健康的でハリのある肌をしています。
「肌がおきれいですね」そう話かけると「私がすっぴんなのは、虎彦さんのためなのよ」そう言って穏やかな表情をして、でも、芯のある眼差しで笑っていました。
さて、改めて和子はどうしてすっぴんでいることを選んだのか。その理由は……書籍「すっぴん」に描かれています。虎彦への熱い思いとともに、和子がすっぴんでいることの真意を確認しつつ、楽しんでいただけたらと思います。
そうそう、最後に一つだけ。
「化粧」という言葉を調べた辞典には先に紹介した意味のほかに、もう一つの意味が書かれていました。それは「うわべだけのこと、虚偽」。なるほど。和子の虎彦への思いは虚偽などではなく、だからこそ、うわべだけの化粧を必要とせずに、すっぴんであることを選んだ、ということなのかもしれません。