About林虎彦ってどんな人?

profile

レオン自動機株式会社・創始者。佐賀県出身。1926年、父の仕事の関係で台湾・高雄に生まれる。44年制高雄第一中学校卒業。終戦後帰国。50年金沢で和菓子製造の「虎彦」創業。和菓子製造の機械化を思い立って、10年以上の歳月をかけ62年自動包あん機を開発。翌年レオン自動機株式会社を設立。その後、パン生地をシート状に伸ばして製造する製パンシステムも開発。

林虎彦の3つの偉業

世界の食文化を変えた「自動包あん機」を開発

 林虎彦のもっとも偉大な功績は、「自動包あん機」と「製パンシステム」を発明したことである。これまで、「餡を包む」「パンを成型する」といった仕事は、一部の職人の手仕事でしか実現できず、彼らの労働環境は過酷を極めていた。終戦直後の日本で、そんな「食」の現場を目の当たりにした虎彦は、「文化的な活動をするべき人間が、機械のように働かなければならない」現状に違和感を覚え、食の分野の機械化に乗り出したのだ。
 着想から開発に到るまで、なんと12年の歳月をかけたこの自動製造機は、食品加工業界に革命を起こし、饅頭・葛餅・あんぱん・月餅・ピロシキ・クロワッサンなど、世界中のあらゆる食品を手軽に加工できるようにし、世界中のあらゆる食文化を、より豊かに、より大衆化することに成功した。

創業3年で世界進出、120以上の国・地域に輸出!

 林虎彦は創業からわずか3年で、自身の開発した商品を世界へ輸出開始。世界でもこの機械の仕組みは驚きを持って迎えられ、アメリカの業界紙に取り上げられたことで、瞬く間に林虎彦の名前は世界に知れ渡ることになった。
 今では、海外事務所を9施設設け、120以上の国や地域に、製品を輸出し続けている。終戦直後、闇市で闇屋をしていた時代にアメリカ人と親しくなり「人間基本はみな同じ」という境地に至ったこと、そして「ものを食べて幸せになる」という原風景は、どこにいっても普遍的で変わらない価値があるという確信、そして未開の地への好奇心が、彼を世界に飛び立たせたのだ。

全ては社会のため、人類の文化のために

 林虎彦は会社を作る際、法人登記の前に社是を決めた。「社会に存在理由のある企業たらん」それが、林虎彦の人生における理念である。金儲けのためのビジネスではなく、自分たちがやっている仕事は「文化の創造」であり、全ての人にあまねく求められる「社会的な」事業でなくてはならない。
 そんな彼の想いやこれまでの事業の成功は、国内外様々な方面で認められ、紫綬褒章、藍綬褒章に続き、2005年には旭日中綬章を叙勲される。2013年には、ASB(アメリカ製パン協会)より名誉表彰を受け、同協会の殿堂入りも果たした。

HISTORY林虎彦の歴史を紐解いてみましょう。

1926年実業家の父の元、台湾にて生まれる

虎彦6歳

 林虎彦は、第二次世界大戦前の1926年、台湾・高雄にて生まれた。父親は台湾製糖株式会社の社長であり、その日本人社宅で、5人兄弟の末っ子、三男坊として生を受ける。広い縁側と芝生に囲まれた庭、コロニーの中央にはテニスコートや野球場もあった。父親は社長でありながら、製糖技術のエンジニアであり、玄関を入ってすぐ右側の六畳間には化学や物理などの本がぎっしり詰まっていた。

1931年「神童」と呼ばれた子供時代

虎彦13歳

 小さい頃からわんぱくで、いつも喧嘩には勝っていた。さらに成績も学校で一番であり「神童」と呼ばれた幼少時代。小学校3年生の頃にはエンジンの設計図を一人で描き、実際にスチームエンジンを積んだ蒸気機関車を作り、社宅の縁側で走らせてみた。虎彦が綿密な浮力計算に基づいて作る紙飛行機は、下に向けて飛ばしても空高く舞い上がったという。

1937年好奇心がますます強まる中学生時代

虎彦16歳

 中学1年の頃にはダイナマイトを作り、実際に庭の太い木の根を爆音と共に吹き飛ばしたという。中学の高学年になると、虎彦の興味は土壌微生物学にうつり、バクテリアの菌を顕微鏡で追っていたという。部活はグライダー部に所属。空へ常に憧れを持っていた。軍人志望の少年が多いこの時代に、すでに実業家になりたい、という夢を抱いていた。

1941年幸せな生活に影が忍び寄る

家族写真

 昭和13年、虎彦が13際の時に女学校を出たばかりの姉、春枝が他界。それを追うように母久子も亡くなった。ともに病名は結核であった。そして虎彦も昭和17年、同じ病に倒れ血痰をはく。そのころ、太平洋戦争が始まっていた。召集令状が届き虎彦も兵役についたが、病気を理由に除隊。戻った実家はB29の爆撃で廃墟と化していた。次兄は特攻隊で沖縄に散り、長兄と長姉は日本本土に、父は山奥に疎開しており、虎彦は一人での生活を余儀なくされた。

1944年生きるか死ぬか…苦難の時代

 虎彦は親しくしていた台湾人の家の一間を借り療養に励んだ。生き抜くことがせめて母への恩返しだと考えた。毎日、山を歩いては病気を治すためにハブをつかまえて皮をむいて串刺しにし、ムシャムシャ食べた。薬草を食べたり、ハブ茶を飲み、虎彦の体力はみるみる回復していった。そのうち村人たちは虎彦を仙人のように見るようになり、病気になった時は虎彦の元に助けを求めにやってきた。終戦の頃には虎彦はすっかり有名人になっていた。

1946年日本に引き上げ、日雇い掃除夫に

 戦争が終わり、引き上げ船に乗って九州佐賀に降り立った虎彦。日雇い人夫をしながら福岡へ。そこでは米陸軍病院の日雇い掃除夫を勤めながら、砂糖やチョコの横流し(いわゆるヤミ屋)をし、一儲けを果たす。そのお金を使って家を建て街に溢れる浮浪者や売春婦を助けたかった。しかし資金が足りない…。そんな時、ヤミ屋の仲間からどぶろくを作って一儲けしようと持ちかけられた。

1946年福井県で、どぶろく造り

 知り合いがいるからとの仲間の提案で、虎彦は福井県に移動。持っていたお金をはたいて、皆でどぶろくを造った。順調のように思えたが、冬場に入ると雪が降り、彼らは小屋に閉じ込められてしまった。食べ物もだんだん底をつき、最初は「ちょっとだけ…」という気持ちだったのに、気づけば自分たちで造ったどぶろくをあっという間に飲み干してしまった。資金も食料も底を付き、醜い喧嘩が始まった。虎彦は小屋を抜け出し叔母がいるという石川県金沢を目指した。

1948年石川県で結核が再発、死を考える

 叔母の家に居候しながら魚のブローカーを始め、空き時間には焼け残った図書館で本を貪るように読んだ。小金を儲けた虎彦は、おもちゃ工場を始めようとしたが、再び喀血。治ったと思った結核が再発したのだった。叔母の元にいられなくなった虎彦は、金沢と福井の間にある東尋坊という村に掘っ建て小屋を建て、そこに暮らすようになる。もはや生きる気力を失い、自殺しようと能登半島をうろうろした。

1948年人の親切に触れて、活力を取り戻す

 ほとんど幽霊のように過ごしていた虎彦だが、それを見かねた近所の住民がある日金沢の旧陸軍病院に運んでくれた。生活保護法という法律で自分が保護されたことを虎彦は知る。初めて人からほどこしを受けて、感激した。風呂に入り、綺麗な寝巻きに着替え、白いご飯をかきこみながら「俺も税金を払えるような人間になろう」と、この時虎彦は心に誓った。その後病院で1年半の闘病期間に入った。

1950年パン屋さんでの修行時代

 闘病生活を終え、社会に出た虎彦は「住み込み募集」という電柱広告を見てパン屋の店員として働きはじめる。学校給食用のコッペパンを造っている会社だった。朝早く起きて夜遅くまで働く単純労働の日々。しかし、その忙しい合間をぬって虎彦は図書館に通い、新しい知識をむさぼるように得ていたのだった。そのうち虎彦は新しいパンを次々と開発し店を盛り上げた。しかし社長と喧嘩し店を飛び出ることになった。

1950年和菓子職人という、新しい夢

 金沢市内に下宿を決めたものの、無職になった虎彦。手元にはお金がない。朦朧とした意識の中闇市を歩いていると、おはぎと大福餅が目に入った。それを見た瞬間、虎彦の頭の中に幸せだった頃の一家団欒の家庭風景がひろがった。その時、「和菓子職人になろう」と虎彦は決心する。虎彦にとって和菓子は究極の平和を意味していたのだった。まずは和菓子の仲買いの仕事を始め、工房に出入りしては職人の動きを研究する日々が始まった。

1950年職人としての第一歩

 そんなある日、日頃から親しくしていた金沢の伝統工芸、九谷焼の窯元の夫人が「うちにも和菓子をおきたいから誰かいい人紹介してくれない?」と虎彦に依頼してきた。そこで虎彦は自分を雇うように進言、ついに和菓子職人に。和菓子には茶の湯の席を飾る高級な菓子である上ナマと、大福や饅頭など庶民的な朝ナマがあるが、虎彦は上ナマづくりに没頭。常に研究を欠かさない虎彦は次々と新製品を開発しては人気を博し、なんと昭和26年には独立して「菓匠虎彦」を設立した。

1950年ついに独立、自分の店を持つ

『虎彦』創業
『虎彦』創業

 昭和25年、虎彦は自分の和菓子店を金沢に創業した。名前は「菓匠虎彦」。お店はのちの妻になる和子の実家を和菓子店に改装したものだった。日々研究を欠かさず、常に新しい和菓子に挑戦する「菓匠虎彦」はまたたく間に評判の店となった。しかしこの頃、虎彦は「和菓子製造の機械化」という新しい夢に取り憑かれていた。朝から晩まで続く過酷な肉体労働をなんとか機械化し、人間はもっと文化的な作業だけに力を入れるべきだと考えたのだ。

1954年生涯の伴侶・和子と結婚

妻和子との一枚
妻和子との一枚

 研究に追われる日々の中、嬉しい出来事もあった。29歳のとき、虎彦は「菓匠虎彦」のお店の元となった下宿先の次女、和子と結婚する。虎彦は、下宿時代からずっと和子の数学の家庭教師をしていた仲だった。和子は、物知りで研究熱心な彼を兄のように尊敬していたという。結婚してからも研究に没頭してなかなか家に帰ってこない虎彦を、文句も言わずにじっと見守り続けたそうだ。

1954年研究にのめり込み経営が傾き始める

自らデザインした菓子を包む風呂敷
自らデザインした菓子を包む風呂敷

 研究にのめり込んだ虎彦の和菓子店は、頭首を失いどんどん経営が傾いていった。和菓子にカビが生えているといって、大量の製品が返品されるようになった。ついに負債総額は当時のお金で約2,000万ほどにふくらみ、菓匠虎彦は倒産。虎彦は夜逃げのようにして栃木県の鬼怒川へ向かう。虎彦が倉庫として使っていた建物が、唯一差し押さえを免れたのだ。

1956年栃木で再出発、「虎彦製菓」創業

栃木で再出発

 虎彦は栃木に移り住み「虎彦製菓株式会社」を創業。同時に、製菓の機械化の研究のために「流動工学研究所」を設立。「鬼怒の清流」というロングセラー商品を生み出すなど和菓子制作にも力を入れつつ、機械化の研究も怠らなかった。しかし儲けを全額研究費へ回してしまう虎彦に、従業員の不満が爆発。さらに総支配人が会社のお金を持ち逃げし、従業員へ給料が払えず、労働争議までもちあがってしまう。

1960年様々な人からの援助をうける

様々な人からの援助をうける。

 従業員への支払いができず途方にくれていると、和菓子の老舗「タカラブネ」の社長、野口五郎氏が100万円を寄付してくれ、さらに東京の大手菓子商「月ヶ瀬」の店主も研究資金の提供を申し出てくれた。さらにその翌年、科学技術庁から発明実施化補助金も申し受けた。製菓業界の重労働は皆の長年の悩みであり、この頃、虎彦の研究の噂は徐々に広まり、着実に支援者が増えてきていた。

1961年ついに長年の夢が形に!

ついに長年の夢が形に!

 1961年12月の午前2時。ついに、長年の夢であった「自動でまんじゅうを包む事が出来る機械」「R-3型包あん機」の開発に成功。さらに翌年、より実用的に改良を重ねた「N101型」も開発。虎彦はこの包あん機の成功をきっかけに「虎彦製菓株式会社」を従業員ごと月ヶ瀬に売却すると同時に、「流動工学研究所」も解散。残った530万で「レオン自動機株式会社」を設立したのであった。

1963年レオン自動機株式会社設立

建設当時の社屋

 開発に成功した「包あん機」は、長らく和菓子業界全体で問題になっていた長時間労働、重労働を、あっという間に改善した。全国からひっきりなしに注文が入るようになり、会社はどんどん大きくなっていった。レオン自動機の本社は宇都宮市郊外の雑木林の中に建てられた。東照宮に続く日光街道に建てられたこの立地は、海外の人が来やすいようにとの想いも込められていた。

1965年千代田区に東京営業所を開設

TBRビル外観

 東京都千代田区日枝神社の目の前に立つTBRビルの一室に、東京営業所が開設された。同ビルの近くには議員会館があったため、テナントには大物代議士の事務所や関連団体がひしめきあっていた。また、同じ年の9月には欧米10カ国にまたがる海外視察が行われた。このとき、クノーデルやピロシキといった世界の包む食品と出会い、虎彦は世界での機械の需要があると確信した。

1966年テレビCMにも登場

テレビCMにも登場。

 1966年にはテレビCMも放映開始。「105型」のCMをサポートしたのはビートルズの日本公演の司会もつとめたE.H.エリック氏。「夢の機械」と報道された包あん機を一目見ようと、大勢のお客様が宇都宮の本社を訪問するようになった。そこで、特注したサービスカーに機械を積み、キャラバンと称して各地の公民館で実演会を行ったりもした。レオン自動機の名は徐々に食品業界に知られるようになっていった。

1967年和菓子だけでなく製パン技術も開発

東京晴海で行われた国際見本市

 この技術を使えば和菓子だけでなく、パンも作れる。ある日虎彦は気づいた。製パン工場で働いた経験がある虎彦は、和菓子業界だけでなく、パン業界の肉体労働問題もなんとか解決したいと思っていたのだ。そして1967年、包あん機105型を改良した200型シリーズを開発。これによりパンや大福など、饅頭よりも弾性の強い生地でも扱えるようになった。

1967年早くも世界を見ていた虎彦

M.J.スワートフィガー氏とスタッフの面々

 虎彦は新たに開発した202型という機械の運転状況を8mmにおさめ、アメリカの製パン技術者協会会長を訪ねた。製パン協会の幹部たちはその技術に驚き、「もっと詳細を知りたい」と一人の男をレオンに派遣した。アメリカ製パン業界大手コンサルタントの製パン部長M.J.スワードフィガーである。彼は3ヶ月間日本に滞在ののち、帰国。そしてパン業界紙に「革命的製パン機」と紹介し、虎彦の業績を賞賛した。瞬く間に虎彦の名前は世界に知れ渡ることになる。

1970年海外に次々に営業所や研究所を展開

カールトン研究所の設立調印式

 1970年6月には西独デュッセルドルフに「レオン研究所」を開設。11月には米国ニュージャージーに「レオンパラマス研究所」という駐在員事務所を開設。1979年にはカリフォルニア州アーバインに「オレンジ・ベーカリー」という現地法人を設立。虎彦は国内だけでなく、海外に積極的に事業を拡大させていった。

1974年製パン技術に革命!MMライン発売

 1974年にはストレスフリーシステムというシステムを開発。これは製パン技術の一種で、パンの生地を薄く均一に伸ばすためのシステム。上から圧力をかけるとうまくいかないが、生地を引っ張って伸ばしていくと均一になるという仕組みを発見した。この技術により、パイやデニッシュなどの折りたたみが必要な生地が機械で作れるようになり、大量生産が可能になった。

1974年史上最年少(当時)で紫綬褒章を受章する

褒章をつける虎彦

 虎彦の功績は国にも認められ、1971年には通産大臣から輸出貢献企業として表彰され、ついに1974年には紫綬褒章を受章。その時虎彦は49歳。当時、史上最年少での受章であった。祝賀会では「私の道楽や夢でこの機械が社会に送られているのではない」と、自分を支えてくれた人々への感謝の気持ちを述べている。もはや虎彦の夢は、虎彦一人だけのものではなくなったのだった。

1979年アメリカでクロワッサンブームを引き起こす

建設用地を視察する虎彦

 1976年にはクロワッサンを製造する機械を開発し、1979年にはアメリカに現地法人を設立。ここでは、モデルプラントを毎日8時間稼働させ、誰でも見学できるようにした。これまでは限られた層向けの高級な嗜好品だったクロワッサンが、機械を使って比較的安く量産できるようになり、1983年にはアメリカで有名ファーストフード店の朝食メニューに加えられ、一大クロワッサンブームが巻き起こったと言われている。

1984年日本食品機械工業会、会長に就任

会長としてあいさつする虎彦

 1984年、林虎彦は日本食品機械工業会の会長に就任。虎彦が精力的に推進した取り組みは数知れない。その一つが、食品機械の安全・衛生に関するJIS規格の浸透。当時JIS規格は製めん機械にしか制定されていなかった。他の食品機械においては当該機械が多種多様にわたることから統一基準を作成するのが立ち遅れたためだ。しかし虎彦は食品機械業界の近代化・国際競争力の強化を図るため、専門の委員会を設置し各基準の細則をまとめた。

1984年経営情報を一元化するシステムを導入

 1984年にはいち早く、企業にデジタル技術を導入。経営情報を一元化するシステムARCOS(アルコス)を稼働(開発に3年かけている)。開発、生産、経理、販売、人事情報をこのシステムで全社員が共有できるようにした。それは、一時期睡眠薬の飲み過ぎで自律神経をやられ、まっすぐ歩けなくなった虎彦が、「だれが社長になっても、会社を運営できるようなシステムを」と考えたからだ。その結果、顧客満足度や成約率がさらに向上、お得意様が増えていった。

1987年東証市場に上場

 1987年、レオン自動機の株式が東京証券取引市場第2部に上場。設立当初は520万円の資本金でスタートしたこの企業は25年の歳月を経て73億5175万円の資本金を持つ大企業になっていた。株式上場を祝う祝賀会は、東京、大阪、宇都宮の3会場で開催され、延べ1,600人が参列した。さらに2年7ヶ月後の1989年(平成元年)には東証一部に上場。栃木県内に本社を持つ企業としては4社目の快挙であった。

1987年火星人®シリーズの登場

 そののち、レオン自動機の看板ブランドとなる火星人®シリーズの第1号となる「CN100型」が大阪のモバックショウでデビューした。これまでレオン自動機で発売されたモデルのうち、もっとも数多く出荷されたシリーズである。従来機は生産条件の変更をクラッチによって行っていたのに対し、火星人®シリーズは各種の生産条件をインプットしておけば、いつでも同じ製品が再現・生産できるようになった。

1989年レオンプラザ東京、営業開始

 需要拡大と市場開発・戦略的マーケティング機能を併せ持った食情報のターミナルとして「レオンプラザ東京」が完成。1989年8月30日から9月1日までの3日間落成披露宴が行われ、1,500人もの人が参列した。アンテナショップとしての役割をもったベーカリーカフェ「クロワッサン」(現在はクローズ)、最新ラインによる生産実験、世界中の民族食のサンプル展示、相談室、会議室などを備えていた。2000年に都市型工場を提案するショールームとしてリニューアルを果たした。

1995年虎彦の半生を描いた演劇「和菓子屋包匠」

実物のN207型登場

 虎彦の半生を題材とした舞台劇「和菓子屋包匠ー世界の食を包んだ男ー」が、金沢市内の石川文教会館ホールで3日間にわたり上演された。当時金沢で菓子博覧会が開催されていたこともあり、舞台化が決まったそうだ。内容は虎彦が金沢で自動包あん機の開発を思いたち、発明にいたるまでの物語。饅頭を生産するシーンでは会場から盛大な拍手が沸き起こったという。

1996年V4ドウフィーダーの誕生

林虎彦とV4ドウフィーダー

 かねてから開発が進められていた生地吐出装置「V4ドウフィーダー」がついに完成した。投入したパン生地のグルテン膜に損傷を与えず、均一な生地を連続的に吐出し、後続の成形ラインに供給する機械である。これまで必要だったグルテン膜を回復させる化学添加物も、生地を休ませる巨大な設備「オーバーヘッドプルファー」も不要になるという、画期的な発明であった。

1997年アルチザンブレッドライン自動生産を実現

アルチザンブレッドラインの実演

 ヨーロッパを中心に伝統的に職人の手作業でつくられ継承されたきたアルチザンブレッドの自動生産が可能になった。欧米のベーカリーが積極的に導入し、市場にブレッドを安定供給したため、それまで高価でなかなか買えなかったアルチザンブレッドも手軽に買えるようになり、世界中に普及していった。

2005年旭日中綬章を受章

 「国家又ハ公共ニ対シ勲績アル者」に授与される旭日中綬章を授与。包あん機や製パンラインなど数々の発明により、国内外の伝統食の機械生産を実現してきたことや、日本食品機械工業会の会長としても長きに渡り食品業界の近代化、労働環境の改善に尽力してきたこと。これにより「国民の豊かで安全性の高い食生活の実現に多大な貢献をした」というのが受章の理由だった。

2009年一貫体制が整い効率生産が実現

中央が上河内第4工場

 上河内工場第4工場が完成し、上河内工場における一貫受注体制が完成。設計から出荷までのプロセスを一元化し、お客様へより高品質な機械をお届けすることができるようになった。様々な形状の部品を自動で加工するDNCや、金属板を丸や四角に打ち抜いて部品を作るレーザータレットパンチプレスなど、新型機械も導入された。

2013年ASBより名誉表彰

アメリカシカゴでの授賞式

 2013年3月、ASB(アメリカ製パン協会)より、アメリカの製パン業界に長年にわたる顕著な貢献が認められ、名誉表彰を受けると同時に、同協会の殿堂入りを果たした。授賞式にはレオン自動機株式会社の社長、田代康憲が参加、受賞の記念の肖像画を受け取る。

2015年林レオロジー記念財団を設立

 食料品製造機械分野の研究開発の活性化、国内外における各国各地域独自の食文化の発見、再興、普及を促進するべく、各種助成事業、顕彰事業および人材育成事業を目的として、林虎彦・和子夫妻は2013年4月1日に公益財団法人林レオロジー記念財団を設立。志のある学生・若手研究者に奨学金、研究費を助成し、優れた食品製造技術の創造と優秀な人材の育成に努めている。

2015年「105型」が日本機械遺産に認定

 1960年代に開発した包あん機「105型」が、日本機械学会から「機械遺産」として認定される。「機械遺産」とは日本国内の歴史的意義のある機械技術に与えられる名誉ある賞だ。トヨタ産業技術記念館(名古屋市)で行われた認定式には、林虎彦の代理としてレオン自動機株式会社の社長、田代康憲が出席し、認定書を受け取った。